狂人の町角
イノセントな君に贈る。
ホグワーツに行かなくては。俺はそう思いながら、道端に倒れていた。阿呆か。
身体に力が入らなくて、今にもこのまま死んでしまいそうだった。
いっそのこと近くに立っているくねくね曲がった木で頸を吊りたくなって来る。
あるいは、吸魂鬼の後遺症かもしれないと考えられない事は無い。
「や、っべー………」
何だかひどく憂鬱な気分で、泣きたくてたまらなかった。あるいは、以下同文。
ハリーを守りに行かなくてはならないのに、何だこの情けない状況は。
今の俺だったら、ピーターにだって殺られてしまうかもしれない。
情けなくて、泣きそうだった。
泣いている場合なんかじゃ無いのに。俺には、泣く時間さえ無いんだよな。
そう考えると余計に泣きたかった。それってカッコ悪かったから、とりあえず立ち上がった。
歩いていると何も考えずに済んだからだ。過ぎてしまった日々も、少しだけ、遠くなる。
しばらく歩くと看板が立っていて、右に曲がると700メートル先に村がありますとあった。
懐かしいような、聞いたことも無いような、名前の村だった。いわゆる田舎なんだろう。
いずれにしてもこれ以上飲まず喰わずで歩き続けるのは不可能だと俺は判断した。
自分が指名手配されていないことを願いながら、歩き続ける。
湿った土の香りがする、妙にのどかで薄暗い、森の中だった。
◆
「何だここ…人居ないのかよ」
村には全く人気が無かった。俺は妙な気分で整った町並みを眺める。
まるで人間が全て宇宙人にでも攫われてしまったような、無機質な村だ。
俺は息を吐いて、とりあえず村の中に入り、ふと左脇にある店のウィンドウの貼り紙を見た。
『緊急指名手配 凶悪犯 シリウス・ブラック』
……誰このやつれて不細工な人。何これ。ていうか、俺だよな。はいはい。
軽い眩暈を感じた。多少混乱しながらも、逃げ出そうと踵を返す。
「あら」
聞き覚えのある声がした。俺は振り向いた。もう引き戻されるのか、牢獄に。そう思った。
無表情を装っていたが、泣きたいほど嫌だった。あそこは余りに辛すぎて、此処は、余りにのどかだ。
後ろには漆黒の髪をこげ茶色の瞳をした女が、目を見開いていた。
俺も思わず目を見開く。独房で見た夢に出できた女に、そっくりだったからだ。
「あ」
「あら…?え、ちょ」
「は?」
「あ、あれ…?」
「…何だよお前」
「あなた、シリウス・ブラック?」
「…」
「そうでしょ」
「さあな」
「あらまあ」
「あらまあって…どこのオバサンだよ」
「失礼ねやたらと!」
「だってお前、俺はこれからお前のせいで捕まんだぜ?これくらい当然だ」
「そうね…でもそれじゃ、骨折り損よね」
「まあな」
「あたしがよ。夢を見たのよ」
「は?夢?」
「あなたに、逃げ方を伝授する、夢」
「…………」
俺は黙り込んでその顔をまじまじと見た。とてもとても、信じられなかったからだ。
女は照れたような顔になり、あはは、と気まずい乾いた声で笑った。
「ごめんなさいね!変なこと言っちゃって」
「いや」
「でも何か、通報する気にならないわね…」
「何だよそれ。それでいいのかよ」
「分からないわよ」
「そんな自信満々に」
「…うーん」
「でも俺、やることがあるんだよな」
「…そう」
「だから死ねない。言っただろ?」
女は驚いた顔で息を呑んだ。俺は、にやりと笑う。いつもの調子で。
◆
「どういうこと!」
「俺に聞くなよ」
「そうよね…」
「まーいいさ。おかげで助かったし」
「…あたしはいつでも通報できるのよ」
「でもお前、やんねえだろ?」
「………」
女は黙り込んだ。長い睫毛の影が、顔に落ちる。やっぱり好みだ。
「名前は?」
「…。ファーストネームは、」
「仕事は?」
「吸魂鬼の研究よ」
「あー、それで」
「ええ」
頷く彼女は生真面目そうに見えた。夢の中とは、少し違うように感じた。
何が違うのか?俺が、狂人からどのくらい遠いところに居るか、というところだ。
俺は前よりも平常心を取り戻しかけている。いける。もう少しだ。元に戻れる。
誰も居ないと人は狂って行く。
誰かが居ても、人は狂う。
人は常に狂って行くが、その軌道修正をするのには、他人が必要な場合が多い。
俺はもう長いこと、軌道修正が出来ていなかったのだ。
誰も居なかったから。愛しかった人たちが、全て、俺を去ったからだ。
そしてそれは、他の誰でもない、俺のせいだ。
は立ち上がってカーテンを閉めた。途端に少し薄暗くなり、俺は寒気を覚えた。
暗闇は恐怖を呼び覚ます。牢獄が蘇ってくる。ひどく、鮮やかに。
毎晩そうだった。そして一人ぼっちの俺には、それをどうすることもできなかった。
「待って」
「え?」
「待ってくれ」
「な、何を?」
「行かないで」
懇願する俺はさぞ情けない物体だったろう。馬鹿馬鹿しくて、笑えるくらいだ。
はとても驚いて、それでも慌てずに小さな声で、どうしたの、と言った。
「もう少しで戻れるかもしれないんだ、俺に」
「…それじゃよく分からないわよブラック」
「俺、狂い掛けてただろ?分かってたんだ。でも、どうしようもないだろ?俺には」
「そうね。そういうものだと思うわ」
「だから、誰かが居れば元に戻れるかもしれない。もう少しで」
「…」
「行かないでくれ」
は困った顔をした。無理も無いと思う。根拠なんて、何処にも無い。
俺はそれを見ながら、馬鹿みたいなことを言っていると考えていた。
彼女がいますぐ外へ出て行って、他の住民に俺の存在を知らせたって、おかしくない。
それからどうしようかと言う所まで考えが及んだ時だった。はくすりと笑った。
「あたしは見た目の良い男の人は好き」
「うわー」
「何よ!」
「嫌な女」
「ショックね」
「何でだよ」
「助けてあげてるのに」
「わーったよ、悪かったよ」
「あはは、冗談よ冗談」
「……」
「よっし」
は俺の隣の、少し離れたところにすとんと座った。
人間の存在感とか、体温とか、呼吸とか、そういうものが、伝わってくる気がした。
当たり前で、久しぶりだった。あの夜から今まで、もう長い間、誰もそこには居なかった。
「泣いてもいいのよ」
「泣いてねーよ」
「またまた」
「バーカ」
「何よ」
「泣かねーよ」
俺は、泣いていた。
◆
「泣き止んだ?」
「うざいなお前!」
「…ひどいわね女性に向かって」
「これでも昔はモテモテだった」
「面影無いわね」
「……」
「じょーだんよ」
「あーはいはい」
「……」
「何だよ」
「どうして捕まったの?」
「知らねえの?」
「…一般的に公開されている理由は、知ってるわ」
「あー、それは…」
「…言いたくなかったら、良いんだけど」
「別にそういうわけじゃない」
「そう」
「でもヒミツだな」
「…?どうして」
「今度来た時に、教えてやるよ」
「え?」
「……」
「……あー…そうね…良いアイデアね…」
「何?何照れてんだ」
「照れてないわ!」
「やっぱ俺は今でもモテモテだな」
「何うっとうしいこと言ってんのよ。通報するわよ」
「最悪お前!」
「あはは」
「笑い事じゃないから!」
ひとしきり笑った後、は息を吐いて空中を眺めた。手が死人のように、だらりと床に伸びていた。
俺はその手を握った。彼女は驚いて身を引く。驚いてばっかだな、こいつ。俺はそう思った。
驚いた顔を見ながら、俺は言葉を選んだ。大して候補は多くない。ありがとう、もしくは、感謝してる。
「あんたが逃がしてくれなかったら、俺はあそこで一生を終えてたかもな」
「…十中八九そうね」
「ありがとう」
「…いいえ。夢の中で、やったことだし」
「ははは」
「どうしてかしら?」
「知るかよ」
「あなたはまだ死んではいけないって、神様が思ったのかも」
「信じてるのか?神様とか」
「あんまり」
「分かんねえなあお前」
「でも、信じてみたくなるわね」
「はあ?」
「ふふふ」
「キモイぞ」
「…」
◆
「じゃあな」
夕焼けが綺麗だった。それを背にしたの顔は、影になっていてよく見えない。
「ええ」
頷いたのが分かった。俺はそのまましばらく立ち尽くした。早く行け、というようにはまた頷いた。
俺は何だか、そう、おかしくて、どこにも行きたくなかった。どうでもいい事を尋ねた。
「何で今日ここ、誰も居ねえの?」
「…ここは、だいぶ前から誰も居ないわ」
「?」
「流行病でね」
「そっか…悪い事訊いたな」
「ほんとにね」
「!」
「冗談よ」
「…じゃー俺、行くから」
「ええ」
「ほんとに」
「分かってるわよ。やることがあるんでしょ」
「ああ…そうだな」
「さようなら」
の顔は相変わらず見えない。彼女は頷いた。立ち去るべき時だ。
手を振ろうかと思って、やめた。頭を下げた。は肩をすくめ、ひらひらと手を振った。
俺が生きてるのはあんたのおかげだ。そう呟いたが、彼女には聞こえなかったろう。
振り向くと夕日はもう見えない。
「ねえ!」
「何だよ」
俺は振り返らない。
「また来るでしょう!」
「知るかよ!」
「ショックだわ!」
「馬鹿じゃねえのお前!」
「…」
「嘘だよ」
「……」
「?何か言えよ」
振り返るとは顔を俯かせていた。肩が震えてるのは、俺の幻覚だろう。
俺は何を言って良いのか分からなくて、しゃがんで手をひらひらと振った。彼女はまた頷いた。
俯いた顔を覗き込むように顔を傾けて、それでもの顔は影になっていて見えない。
「ありがとな」
彼女は頷いた。それだけしか、できないように思えた。俺にはそれで良かった。
◆
緑色の閃光が瞼の裏に焼きつく。
死ねないと思っている人間は死なないものよ。確か彼女はそう言った。
死ぬんじゃん。
はは、嘘吐き。
死ねない理由なら、たくさんあるのに。
ハリーのこととか、あいつらの仇のこととか、リーマスだって、ひとりきりになってしまうし。
あと、あんたのことも
死ねない理由だったのに
今度会うときはファーストネームで呼んでみたいって、そう思ってた。
040913(こりゃまたあっさり…)